鑓場古戦場

付近住所 徳島県徳島市国府町東黒田


 勝瑞城主で阿波守護細川持隆が 家臣三好義賢に討たれたのを噴って、持隆の家臣久米安芸守義弘(名東郡芝原城主)は、女婿にあたる義賢を討って、主君の仇をはたそうとして、天文22年(1553)春に兵をあげた。
義賢は、兵三千を引きつれ、中富川を渡って義弘の軍を包囲した。義弘は、わずか兵八百をもって、東黒田鑓場において勝瑞軍●●●した。世にいう鑓場の義戦である。
 阿波古戦記には
 安芸守馬かけ出し、大音あげて「我譜代の主君、屋形の御敵に、一太刀打●●●の恩に報ず。国人、義を知る者あらば見置きて●●●えにせよ。」
 と、名乗りて馬より下り、大長刀にて、四方八面あたりを払って切り廻れば、我と人と共に、傍輩にして恨なし、義の当然にして身を捨てる人よとて涙を流す者じしあ●●出太刀●す●者なし、義弘能武者二百騎ばかり群りたる中へ駆け入れば、中を明けて通す。
安芸守 「きたなし、戦わずや」
 とて、追いかけ、追詰しけれども、討留る者なし、●●者かけ走に疲れて 長刀投け捨て、上帯切離し、腹かき切って●●●なけり。
 主につづいて 久米の一族は、みな敵中に駆け入って闘死し●●。
 当時、国を挙げて 下剋上が世の常であったが、阿波においてこの義戦がおこなわれた。その故か、阿波古戦記のなかで、筆者は「細川頼之より、国に道ある跡の名残、この一挙にとどまりける。」と讃嘆している。